保存刀剣 NBTHK Hozon Paper |
No.F00137 |
(附) 赤木柄拵(曽我五郎時致佩刀写し) 白鞘 金無垢一重時代ハバキ |
参 考 品 |
刃長 : 25.2cm (8寸3分) 反り : 内反り 元幅 : 1.95cm 元重 : 0.5cm |
登録証 : 東京都教育委員会 昭和62年02月26日 |
国 : 山城国 (京都府-南部) 時代 : 鎌倉時代中期 弘安頃 1278-1287年頃 |
鑑定書 : (公)日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書 平成20年03月19日 |
銘 : (無銘) 粟田口 |
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形状 :
鍛 : 刃文 :
帽子 : 彫物 : 茎 : 平造、庵棟、身幅やや細身にて、重ね頃合、寸延びごころに、内反りのついた上品な短刀姿を呈す。 小板目肌よく錬れてつみ、地沸よくつき、地景入り、精美な肌合いとなり、沸映りたつ。 細直刃、浅くのたれ、匂深く、小沸細かによくつき、金筋小さく入り、刃縁に二重刃・ほつれなど交える、匂口明るく冴える。 直ぐに小丸に品よく返り、先掃きかける。 腰元に、表:護摩箸、裏:腰樋を掻き流す。 生ぶ、先浅い栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔二。 |
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拵 : 金具 : 小柄 : 笄 :
赤木柄拵 総長 : 39.2cm 波に花菱図、山金地、小肉彫 表紋 目貫 梅花肉彫、裏紋 丸無地 銀磨地 長さ:8.0cm 幅:1.45cm 波に花菱図紋、山金地、梅花肉彫 長さ:19.6cm 幅:1.0cm 柄鞘胴金逆角付 入れ子鞘赤木(唐木)磨地仕上 |
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説明 : 粟田口派は、京都の粟田口において、鎌倉時代初期に興り中・後期に至る間に十指に余る名工を輩出している。鎌倉前期には、国友を長兄とする久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟が著名で、他に国友の子の則国がいる。中・後期にかけては、国吉や国吉の弟と伝える国光、国吉の子とも弟子とも伝えられる吉光らが活躍している。それらの刀工を総称して粟田口物と称している。作風は、優美な太刀姿、「鉄色青く刃白し」と評される様に梨子地の鍛えに上品な直刃を焼き格調の高い作品が多い。 この短刀は、生ぶ茎無銘であるが、姿態・地刃共にして粟田口物の美点をよく表している。姿は、鎌倉時代の典型的な美しい短刀姿にて、やや寸が延びて、内反りがつく。地鉄は、粟田口物の「梨子地肌」と称されるように、小板目肌がもっともよくつみ、地沸が微塵に厚く敷き、地景が入り、鉄冴えて、沸映りがたつ。刃文は、細直刃が浅くのたれ、匂深く、小沸細かによくつき、一段と強く、金筋入り、刃縁に二重刃などを交え、明るく冴える。地刃共に、同じ京物である来派に比して一段と沸が強く、所謂、粟田口物の「鉄色青く刃白し」の作風を示す。彫物をよく観察すると、護摩箸・腰樋ともにうんと棟に寄っており、これは京物の粟田口派・来派に共通するもので、さらに護摩箸の留めに目をやると左右の長さが僅かに異なっており、鎌倉時代の名短刀にはまま経眼される。刃区際にて、深く焼き込んおり、これも藤四郎吉光・新藤五国光ら短刀の名人と呼ばれる刀工の作品と同様に掟通りとなっている。なお、元来はもう少し身幅は広かったものと思量される。 やや寸が延びた短刀姿や直刃に二重刃を交える手癖などから勘案すれば、私見では粟田口物のなかでも粟田口国吉にもっとも近い作風をなしている。 附帯する赤木柄拵は、曽我五郎時致佩刀の写しであり、明治初年から近世にかけて極めて精巧に製作された珍しい短刀拵である。なお、笄は耳掻を裏側に向けた古式なものとなり、細部に至るまで忠実に写されている。 |
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<曾我五郎時致>
曾我 時致(そが ときむね、承安4年(1174年)- 建久4年5月29日(1193年6月29日))は、鎌倉時代初期の武士。曾我十郎祐成の弟。曾我五郎とも称される。 3歳の時、実父河津祐泰が安元2年(1176年)に一族の工藤祐経に暗殺され、その後母の再嫁先である相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主曾我祐信を養父として兄祐成とともに養育され、曾我氏を称した。元服後は北条時政の庇護の下にあったという。建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄祐成とともに父の敵工藤祐経を殺害し、兄は仁田忠常に討たれ、時致は将軍源頼朝の宿所を襲おうとしたが捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児の要望により処刑された。 |
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備考 : 上研磨済み。白鞘新規。 拵の柄:目貫部分の金具は可動します。 |