堀井胤明

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00449

白鞘  銀無垢二重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 32.9cm  (1尺0寸8分強) 反り : 0.4cm  (1分)

元幅 : 2.7cm 元重 : 0.35cm

登録証

東京都教育委員会

平成01年06月15日

: 滋賀県

時代 : 近代 明治32年 1899年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成27年03月26日

近江国胤明作

明治卅二亥年二月日

形状

刃文

 

帽子

菖蒲造、庵棟、身幅・重ね尋常に、反り浅くつく。

小板目肌よくつみ、地沸厚くつき、地景入る。

のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、小沸よくつき、金筋入り、砂流しかかる。

直ぐに小丸に返り、先掃きかける。

生ぶ、先栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明

堀井胤明は、嘉永4年6月23日、二代目久五郎の長男として生まれ、幼名は五朗三郎といい、初代:胤吉の甥あたる。

元治元年3月、13歳のときに、大坂住人月山貞吉門に入り刀剣鍛錬の修行に入る。明治3年5月、19歳のとき、胤吉と同様に近江国膳所藩のお抱えとなって、九等組米六俵下扶され、胤吉の向槌となる。しかし、胤吉と一緒に仕事をしたのは僅か7ヶ月の短期間であった。明治維新で帯刀も禁止となる情勢の為、同年12月、胤吉は帰農したので胤明も同じ立場となった。

明治9年、帯刀禁止令が発令されると作刀は一切出来なくなり、多くの刀鍛冶にとって苦しい時代を迎えるが、胤明にとっても同様で兵役や脱穀機の製作なども行っていたようである。明治18年、月山貞一とともに湊川神社五百五十年祭の神前鍛刀を行う。明治28年11月、胤吉が宮内省の御用刀工となると、胤明も翌29年7月、式部職より刀剣練習申付の辞令を受ける。明治32年、滋賀県粟田郡官幣大社建部神社勅祭の際に、古式鍛刀式により胤吉胤明父子は宮内省の許可を得て出張し謹作する。明治33年、胤明と改名する。明治36年4月29日、胤吉に師事すること7年、胤吉は83歳で亡くなる。明治36年、京都府下官幣大社伏見稲荷神社へ宝剣の太刀を謹作奉納する。大正元年、61才のとき、刀剣保存会より職号「近江介」を贈与される。大正7年、胤明は日本製鋼所室蘭工業所の招聘により入社、堀井家は北海道室蘭に移住しすることになった。7月28日、胤明68才、秀明き33才のとき、瑞泉鍛刀所も完成し火入れ式が行われている。大正12年8月24日、73才で逝去。

 この脇指は、姿形は、菖蒲造、庵棟、身幅・重ね尋常に、反り浅くつく。地鉄は、小板目肌よくつみ、地沸厚くつき、地景入る。刃文は、のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、小沸よくつき、金筋入り、砂流しかかり、帽子は直ぐに小丸に返り、先掃きかける。 胤明が48才の作品で、同年は滋賀県粟田郡官幣大社建部神社勅祭の際して、胤吉胤明父子は古式鍛刀式により宮内省の許可を得て出張している。本作も近江近隣の名士の需めに応じて製作したものであろうか、さすがに地刃ともに明るく冴えた優品となっている。

備考

新々刀 中上作

堀井胤明1
堀井胤明2
堀井胤明3

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