保存刀剣 NBTHK Hozon Paper |
No.A00427 |
白鞘 鞘書-古川兼定自筆 金無垢一重ハバキ |
売 約 済 |
刃長 : 15.6cm (5寸1分強) 反り : ごく僅か 元幅 : 1.8cm 元重 : 0.7cm |
登録証 : 岐阜県教育委員会 昭和32年09月05日 |
国 : 岩代国 (福島県-西部) 時代 : 近代 明治35年 1902年 |
鑑定書 : (公)日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書 平成17年02月17日 |
銘 : 兼定 明治三十五年一月二日 |
|
形状 : 鍛 : 刃文 : 帽子 : 茎 : 平造、庵棟、身幅尋常、・重ね厚く、ごく僅かに反りつく。 板目よく錬れてつみ、処々柾がかり、地沸厚くつき、地景入る。 互の目、足入り、匂深く、沸よくつき、金筋入り、砂流しかかり、冴える。 直ぐに小丸に長く返り、先掃きかける。 生ぶ、先入山、鑢目筋違、目釘孔一。 |
|
説明 : 会津十一代兼定は、天保8年12月13日、若松城下浄光町一番地に生まれる。名を友弥、27歳から清右衛門に改めた。嘉永元年12歳の時、日新館書学寮に入り、同3年6月、学業成績が特に進み、褒美として硯一面を賜った。この年から父について鍛冶の技を学びはじめた。嘉永5年16歳の時、城中の御道具お手入れ見習いとして出仕し、同年11月武具奉行。御勘定頭・御目付立合いのもとで鍛刀の業を試され、出来がよかったので親の肩替わり勤めを仰せつけられた。嘉永7年頃から親の代作代銘がある。安政7年から文久3年頃まで、自分の兼元銘と、親の兼定銘を切ったものとがある。文久元年25歳の時、不敬の所行のあった虎という者を打ち果たしたので退嫡されるが、同年12月帰嫡を許された。文久3年7月、京都守護職任務につくために上洛して、併せて11月、日本鍛冶宗匠の三品伊賀守金道に官位を出願し、12月4日勅許となり和泉守と薄墨綸旨を受領した。京都においてもかなりの作刀がある。蛤御門の変では、御所警護の任についた。慶応元年2月会津に帰り作刀に専念した。門弟も会津若松・越後の加茂・新発田・小千谷。京都などから20余名と増えて、その扶持として八人扶持を給わっている。この頃の作と思われる和泉守兼定の和歌一首がある、 「一槌(つち)の無惰をば打たじ大丈夫(ますらお)か 守りとなさん太刀とおもへば いづみ」 慶応4年4月、命によって越後国観音寺村松宮雄次郎方で鍛刀するため、門人の越後加茂の兼元・同与板の兼行、京都の兼弘、会津の兼宗を連れて同地に赴いたが、間もなく、長岡で戦争が始まったので同年6月帰藩した。同8月23日から籠城となり城中から進撃や、弾丸鋳造の任務に就いた。9月22日の開城後は猪苗代に謹慎したが、明治2年2月謹慎の場所を慶山村病院に移され、同年3月から旧宅において内々鍛刀を始め、6月に誕生した若殿松平容大の御守刀を鍛えて献上した。9月10日、十代兼氏が死去したが、同日、命によって越後に出立した。そののち明治7年9月までの5年間加茂町に居住し、その間の作刀を世に「加茂打ち」といっている。明治9年7月会津に戻り、福島県に奉職し、判任官御用掛として土木課に勤務した。明治36年1月15日に東京砲兵工廠に召し出され、新設の日本刀鍛冶所に於いて鍛刀を始めた。同行者は十一代:三善長道と日下部重道らであった。しかし、同年3月28日にこれからというときに急遽した。行年67歳であった。実相寺に葬られ、諡名は精錬院鉄心利剣居士。 本作は、明治35年、兼定65歳の作で、兼定が亡くなる前年の最晩年作である。姿は、平造で長さも五寸一分と短刀の中でも短寸であるが、長さに比して重ねが厚い。鍛えは、小板目よく罪、地沸微塵につく。刃文は互の目を大きく焼き、帽子も地蔵風に湾れて深く返る。沸本位で沸口厚く、小作でありながら非常に迫力のある短刀に仕上がっている。 この短刀が納められている白鞘には、兼定自筆の鞘書で「明治三十五年一月鍛娘のよしこへ作者の贈るところ ときに六十五歳」と記されており、兼定がこの短刀を娘のよしこに贈る為に製作した事がわかる。資料的にも大変貴重な作である。
|
|
備考 : 新々刀 中上作
鞘書-古川兼定自筆 「明治三十五年一月鍛娘のよしこへ作者の贈るところ ときに六十五歳」
「会津十一代和泉守兼定」図録 所載 |