波平大和守行安

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00321

島津家伝来

白鞘  銀鍍金一重ハバキ

(附) 島津家 古鞘・軍刀拵

     売 約 済

刃長 : 70.4cm  (2尺3寸4分弱) 反り : 1.5cm  (4分半)

元幅 : 3.2cm 先幅 : 2.3cm 元重 : 0.9cm 先重 : 0.6cm

登録証

愛知県教育委員会

平成12年09月14日

: 薩摩国 (鹿児島県-西部)

時代 : 江戸時代後期 慶応2年 1866年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成24年01月27日

正国六十三代孫波平住大和守平朝臣行安

慶応二年寅十月日

形状

刃文

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅広めに、重ね厚く、反り浅くつき、中鋒となる。

小板目肌よくつみ、総体に柾ごころとなり、地沸つき、地景入る。

中直刃、浅くのたれごころを帯び、小足少しく入り、匂深く、小沸よくつき、処々沸強く、やや叢となり、喰違い刃・沸筋・湯走りなどを交え、砂流しかかる。

直ぐに大丸に返る。

生ぶ、先栗尻、鑢目檜垣、目釘孔一。

軍刀拵 総長 : 104.0cm

高さ:7.0cm 幅:6.0cm 厚さ:0.4cm

長さ:26.0cm

説明

 波平鍛冶は、薩摩国谷山郡波平の地に中世より近世末にかけて連錦として鍛冶を輩出し栄えており、土地の名を流派名としている。六十三代大和守行安は幕末に活躍し、波平鍛冶の末尾を飾る良工である。名を勘之丞と称し、初め安邑、のちに行安となる。作品は、嘉永頃より明治に及ぶ。文久より慶応にかけて禁裏御用のために上京し、京都で駐槌しており、慶応元年に滞京中に「大和介」から「大和守」に転じている。なお同工は銘文に「正国六十三代孫・・・」と表記するものが多いが、同派で正国の末孫である旨を切るものは此の工のみとなる。新々刀波平の特色は全般的に復古調であるが、重ね厚く、平肉が豊かとなり、特に六十三代行安は受領銘に「大和守」を強く意識したためか、地鉄は板目が流れて柾が交じりよく詰み、地沸が細かくつき、刃文は直刃が大変美しく、ほつれ、二重刃を見せる作品もあり、大和伝が大変強く表れている。本作も、頑健な造込みで鋒はさまで延びず、地鉄は、板目がやや柾がかり、刃文は、直刃によく刃沸が強くつき、喰違い刃・沸筋などの波平行安が得意とした大和伝の作域を示している。一見地味ではありながらも内に過激さを秘めた薬丸示現流という剣法の技と精神に合致する造込み・作風が波平鍛冶には感ぜられる。

 この刀は、身幅やや広めに、重ねが9mmと非常に厚く、平肉が豊かにつき、頑健で重量がある。地鉄は、小板目肌に、刃寄りなど柾がかり、地沸が細かにつく。刃文は、中直刃を基調に浅くのたれごころを帯び、小足わずかに入り、匂い深く、小沸つき、物打ち辺は刃幅を一段と増して、沸がより強く、湯走り・沸筋がかかり覇気が感ぜられる。

 なお、本刀には島津家の御納戸役の筆による古鞘書が附帯する。それに拠れば、茎に銘された製作年紀と同じ「慶応2年10月」に「樋口勘之丞」より主家である島津家に進上された旨が記されている。樋口姓は鹿児島には多いそうで、樋口勘之丞なる人物は薩摩藩士と目される。また、六十三代行安の名も「橋口勘之丞」であるが、関連には研究の余地がある。ともあれ、慶応元年5月2日に大和介から大和守に転じて、京より薩摩に帰国した後の作と思量され、資料的にも貴重といえる。附帯する軍刀拵は昭和18年制定陸軍制式軍刀となっている。

備考

新々刀 中上作。

 

島津家 古鞘

「正国六十三代孫波平住大和守平朝臣行安 長弐尺三寸四分 樋口勘之丞より 進上」

「御刀 一腰 慶応二年寅十月日 別段御差分」

 

新規白鞘。

波平大和守行安
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波平大和守行安
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