特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper |
No.A00294 |
白鞘 金着一重ハバキ |
売 約 済 |
刃長 : 74.2cm (2尺4寸5分) 反り : 1.6cm (5分) 元幅 : 3.1cm 先幅 : 2.4cm 元重 : 0.65cm 先重 : 0.5cm |
登録証 : 栃木県教育委員会 昭和40年04月23日 |
国 : 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部) 時代 : 江戸時代後期 文久4年 1864年 |
鑑定書 : (公)日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書 平成12年12月27日 |
銘 : 平信秀 文久二二年二月日 |
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形状 :
鍛 : 刃文 :
帽子 : 茎 : 鎬造、庵棟、身幅広く、元先の幅差少なく、鎬幅狭めに、平肉あまりつかず、重ね厚く、反り浅くつき、大鋒一段と延び、ふくら枯れる。 板目杢交じり、肌目立ちごころとなり、地沸厚くつき、地景よく入る。 互の目乱れに、角ばる刃・尖りごころの刃、小互の目など交じり、足長くさかんに入り、沸厚くつき、刃中処々焼が抜けたような丸い玉(島刃)が見られ、随処に金筋・砂流し長めにかかり、匂口明るい。 乱れ込んで、先くびれて地蔵風となり、掃きかけて沸つき、金筋入り、長く返る。 磨上(約6cm)、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔三中一埋。 |
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説明 : 栗原信秀は、文化12年、越後国西蒲原郡月潟村に生まれた。文政12年、京都へ上り鏡師となったが、嘉永初年、江戸に出て、山浦清麿門に入り刀鍛冶となった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは、嘉永5年紀であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われる。独立して間もない嘉永6年には、相模国浦賀で作刀した、いわゆる「浦賀打」が違存する。元治元年7月、第一回長州征伐が行われ、彼は幕命を受け大坂に赴き、兵器補給の役を務めている。大坂での作刀は元治元年8月より慶応3年正月までの約2年半に亘っている。慶応元年5月、筑前守を受領した。後に江戸に戻り、さらに明治8年、越後三条に帰り、同10年には弥彦神社の御神鏡の制作を行っている。明治13年1月25日、東京本郷元町の養子:信親宅に於て、66歳で歿している。彼の技倆は山浦清麿一門中で最も卓越しており、師:清麿に迫る出来映えのものがある。 この刀は、現状で2尺4寸5分(74.2cm)の長さとなっており、茎尻は生ぶのものの、約2寸(6.0cm)ほど磨上られており、元来は2尺6寸5分(80.0cm)を超える大柄の体配をした豪刀であったと推察される。現在も地刃が極めて健全にて、幅広で、大鋒が一段と延びて、磨上をあまり感じさせない程に豪壮な姿形を示している。鍛えは板目に杢が交じり、肌目が立ちごころとなり、地沸厚くつき、随処に例によって金筋・砂流しが長めにかかり、匂口が明るいなどの出来口をあらわしている。彼の本領が遺憾無く発揮された優品で、刀姿と相俟って覇気に溢れている。なお刃中に処々焼が抜けたような丸い玉(島刃)が看て取れるが、これも清麿及びその一門によく見る手くせである。長大な作にもかかわらず、破綻なく焼きあげており、栗原信秀の技倆の高さが窺い知れる。 製作年紀の文久4年から明治9年の廃刀令までは、僅かに10余年ほどであるのに、何故にこれほどの刀を磨り上げたのか誠に不思議ではあるが、もし、生ぶであれば優に重要刀剣でも上位に位置することが出来る地刃共に優れた力を持った一振といえる。 |
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備考 : 新々刀 上々作。
上研磨済 部分的に、鎬地にわずかにヒケがあります。指表、中程の刃中に極めて小さな点状の錆があります。 |