波平行安

特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

No.A00214

白鞘  金着二重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 68.8cm  (2尺2寸7分) 反り : 1.0cm  (3分)

元幅 : 3.2cm 先幅 : 2.3cm 元重 : 0.8cm 先重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

昭和63年11月26日

: 薩摩国 (鹿児島県-西部)

時代 : 江戸時代後期 慶応四年 1868年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

特別保存刀剣鑑定書

平成08年04月17日

正国六十三代孫波平住大和守平朝臣行安

慶応四年戊辰春三月 大村藩 大村右衛門君嘱

形状

刃文

 

帽子

鎬造、庵棟、身幅広めに、重ね厚く、反り浅くつき、中鋒となる。

小板目肌よくつみ、総体に柾ごころとなり、地沸つき、地景入る。

中直刃、浅くのたれごころを帯び、小足少しく入り、匂深く、小沸よくつき、処々沸強く、やや叢となり、喰違い刃・沸筋・湯走りなどを交え、砂流しかかる。

直ぐに大丸に返る。

生ぶ、先栗尻、鑢目檜垣、目釘孔一。

説明

 波平鍛冶は、薩摩国谷山郡波平の地に中世より近世末にかけて連錦として鍛冶を輩出し栄えており、土地の名を流派名としている。六十三代大和守行安は幕末に活躍し、波平鍛冶の末尾を飾る良工である。名を勘之丞と称し、初め安邑、のちに行安となる。作品は、嘉永頃より明治に及ぶ。文久より慶応にかけて禁裏御用のために上京し、京都で駐槌しており、慶応元年に滞京中に「大和介」から「大和守」に転じている。なお同工は銘文に「正国六十三代孫・・・」と表記するものが多いが、同派で正国の末孫である旨を切るものは此の工のみとなる。新々刀波平の特色は全般的に復古調であるが、重ね厚く、平肉が豊かとなり、特に六十三代行安は受領銘に「大和守」を強く意識したためか、地鉄は板目が流れて柾が交じりよく詰み、地沸が細かくつき、刃文は直刃が大変美しく、ほつれ、二重刃を見せる作品もあり、大和伝が大変強く表れている。本作も、頑健な造込みで鋒はさまで延びず、地鉄は、板目がやや柾がかり、刃文は、直刃によく刃沸が強くつき、喰違い刃・沸筋などの波平行安が得意とした大和伝の作域を示している。一見地味ではありながらも内に過激さを秘めた薬丸示現流という剣法の技と精神に合致する造込み・作風が波平鍛冶には感ぜられる。

 本刀は所持銘にある通りに、肥前大村藩の家老:大村右衛門の佩刀である。大村右衛門については下記に詳しいが、戊辰戦争において大村藩兵のうち秋田に向かった北伐軍を率いている。当時の貴重な写真も遺されており、写真に撮されている大刀の中身はこの波平行安だったものと推察される。当時、薩摩藩と大村藩はともに朝廷方で同盟関係にあり、大村藩家老:大村右衛門が薩摩藩抱え工:波平行安に注文していたことは、両藩の友好や親交の深さのあらわれであろうか。想像を豊かにすれば、大村右衛門が慶応3年に京都の薩摩藩邸において大久保利通に接見した時に、同地にて鍛刀していた波平行安に注文したものと思量される。資料的にも貴重な歴史を感じさせる一振りである。

<大村(小鹿島)右衛門について>

 

大村右衛門は、大村藩の家老にして、慶応3年(1867)には、京都において薩摩藩の大久保利通と会談した記録が残っている。その際には、藩主大村純熈の京都行きの延期と大村藩兵の京都行きを伝える。慶応4年(1868)1月、京都の鳥羽と伏見で、朝廷軍と幕府軍の戦いが始まる。これが翌年の5月の函館五稜郭(北海道函館市)の戦いまで続いた戊辰戦争である。大村藩はこの時、朝廷(倒幕派)に付き、出陣する。京都から江戸、会津に向かった東征軍と、長崎から秋田へ向かった北伐軍が出陣している。秋田藩が朝廷側についたので、周囲の幕府側の藩から攻撃を受けており、朝廷は秋田藩に応援を送ることになる。大村藩では、家老:大村右衛門率いる326名が長崎から船で秋田へ向かう。角館に着いた大村兵は、庄内藩や仙台藩の兵の攻撃を受けるが、官軍は、大村兵を中心にこれを防いだ。刈和野の戦いでは官軍はとても苦戦し、多くの戦死者を出したが、角館を守り通すことができた。なお、明治以後は大村ではなく「小鹿島」姓を名乗った。

※ 詳細ついては、幕末大村偉人ものがたり 【 幕府との戦い 戊辰戦争】 【幕府を倒す動きへ】 を参考ください。

<肥前大村藩について>

 

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した藩。藩庁は玖島城(長崎県大村市)。大村氏は古来よりこの地の領主であった。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定後もこの地を領することを許された。キリシタン大名の大村純忠(有馬晴純の次男で大村氏の養子となった)の子で、初代藩主・喜前は江戸幕府開府後も引き続きこの地において2万7900石を有する領主として存続し、明治維新を迎えた極めて稀な藩である。幕末期の実高は6万石程度あった。

最後の藩主である第12代藩主・純熈が藩主に就任した時代は幕末であり、藩論は佐幕と渡邊昇らを中心とする尊皇に大きく分かれた。文久2年(1862年)、純熈が長崎惣奉行となると佐幕派が台頭し、尊皇派はこれに対し改革派同盟(大村三十七士)を結成した。元治元年(1864年)、純熈の長崎惣奉行辞任により逆に尊皇派が台頭した。 慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である松林飯山が暗殺され、針尾九左衛門も重症を負った。逆にこの「小路騒動(こうじそうどう)」と呼ばれた闘争を契機に藩論が一気に尊皇倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。以後、薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍した。大村純熈は維新後の賞典禄として三万石を受給したが、これは薩摩藩・長州藩の十万石、土佐藩の四万石に次ぐものであり、佐賀藩の二万石を上回っている。 明治4年(1871年)、廃藩置県により大村県となった。のち、長崎県に編入された。大村家は明治17年(1884年)には子爵となり、華族に列した。その後、倒幕の功が認められ、明治24年(1891年)には伯爵へと陞爵する。

(参考 : Wikipedia)

備考

新々刀 中上作。

波平行安
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