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No.A00187 |
白鞘 金鍍金一重ハバキ |
売 約 済 |
刃長 : 22.9cm (7寸5分強) 反り : 内反り 元幅 : 1.9cm 元重 : 0.6cm |
登録証 : 東京教育委員会 昭和46年06月24日 |
国 : 北海道 時代 : 近代 昭和3-7年頃 1928-1932年頃 |
鑑定書 : |
銘 : 三笠 秀明(堀井秀明) |
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形状 : 鍛 : 刃文 : 帽子 : 彫物 : 茎 : 平造、庵棟、身幅・重ね尋常に、わずかに内反りつき、美しい短刀姿となる。 板目つみ、総体に柾となり、地沸厚くつき、地景入る。 広直刃、匂深く、沸よく、細かに砂流しかかる。 直ぐに丸に短く返り、先掃きかける。 表に「皇国興廃在此一戦」の文字を陰刻する。 生ぶ、先栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。 |
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説明 : 堀井秀明は、明治19年、滋賀県滋賀郡下坂本村で徳田広吉の三男として生まれ、本名を徳田兼吉という。明治34年、二代:堀井胤明門人である松田胤勝より農鍛冶を修行。明治37年、19才の時に二代:堀井胤明に入門し、鍛刀を学び、明治44年、その勤勉さを見込まれ、女婿となり、「兼明」と初銘を銘 す。大正2年、刀剣保存会(羽沢文庫)より水心子正秀の「秀」の一字を贈られ「秀明」と改め、また、昭和9年、皇太子御生誕となり、「明仁親王」と命名さ れると「明」の字を用いることは憚り多いことと考え「俊秀」と改める。大正7年、北海道室蘭の日本製鋼所室蘭製作所・瑞泉鍛刀所に入社し、鍛刀研究に従事する。大正12年、二代:堀井胤明亡き後は、堀井家三代目として瑞泉鍛刀所を継ぎ、優れた技術と卓越した人格者であったことから一門に繁栄をもたらす。昭和17年、宮内省より元帥刀十振の製作を命ぜられ、死を賭して謹作するも完成半ばにして、翌昭和18年、58才で永眠する。法名を龍渕軒瑞泉俊禿日兼居士、墓は大津市石山寺辺町西蓮寺にある。 明治37年8月10日、日露戦争における連合艦隊の旗艦であった戦艦「三笠」は黄海海戦で後部二連装主砲の一門を破壊された。 昭和3年より7年にかけて、当時の名工:堀井秀明とその一門が砲身の残鉄を加えた記念刀を製作し、水交社(日本海軍将校の親睦・研究団体)を通じて販売された。爾来、「三笠刀」とよばれ「皇国興廃在此一戦」の彫物が加えられたものなどがあり、東郷平八郎元帥らに贈呈された刀が著名である。 本作は、銘文の表にも「三笠」と銘された所謂「三笠刀」である。「皇国興廃在此一戦」の彫物があり、水交社製の当時の鬱金色の刀袋と金鍍金ハバキが附帯 し、「三笠刀」として海軍将校用に記念として打たれたものであろう。残念ながら、共箱は紛失してしまっている。 姿は、鎌倉時代の短刀を想わせる美しい姿型を呈し、地鉄は、小板目肌がつみ、総体に柾がかり砲材を使用して いるためか細かい地景がよく顕れている。刃文は、広直刃となり、沸が強く、刃中よく働いており、流石に当時の名人:堀井秀明の作と感嘆させられるばかりである。生ぶ刃もよく残り、健全であり、「皇国興廃在此一戦」の彫物も美事である。
※ 水交社製の共箱については 【三笠刀 堀井秀明 昭和四年紀】 を参考ください。 |
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備考 : わずかにヒケがみられます。
聖代刀匠位列、最高位・神品の列・最上大業物 取締役格筆頭 昭和16年新作日本刀展覧会 特別名誉席 総理大臣賞・文部大臣賞受賞 国工称号授与刀工 |