保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00160

御三家水戸徳川家 8代藩主:徳川斉脩(哀公) 御遺物

将軍家(大徳川家) 12代将軍:徳川家慶公へ献上

白鞘 金着一重ハバキ

     売 約 済

刃長 : 27.4cm  (9寸1分弱) 反り : 0.0cm  (殆どなし)

元幅 : 2.6cm 元重 : 0.5cm

登録証

東京都教育委員会

平成21年04月14日

: 備前国 (岡山県-南東部)

時代 : 室町時代前期 永享7年 1435年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成21年03月04日

備州長船盛景

永享七年八月日

形状

 

 

刃文

 

帽子

彫物

平造、庵棟、身幅・重ね尋常に、身幅のわりに寸延びて、反りが殆どつかない短刀姿となる。

板目に、杢を交え、やや大肌となり、刃寄り柾がかり、総体に肌たちごころに、地沸つき、地景入る、直ぐ映りたつ。

細直刃浅くのたれごころを帯び、匂いがちにわずかに小沸つき、刃縁に砂流し・打ちのけなど小さく働く。

直ぐに小丸に返り、先掃きかける。

表裏に刀樋を丸留する。

生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔二。

説明

 備前大宮派は、同派の遠祖国盛が、山城国猪熊大宮より備前に移住したことに始まると伝え、「備州長船盛景」などと長銘にきる盛景がその代表工とされてきたが、近年、その作風や逆鏨を多様する独特の鏨使いや書風の共通性より、同工は義景・光景・範景・師景・幸景らの一族で、遡れば長光門人の近景に繋がれる長船傍系の刀工で、むしろ「盛助」・「盛継」・「盛景」などと太鏨大振りに銘をきる鍛冶達こそが、国盛の流れを汲む真の意味での大宮鍛冶ではないか、とする新説が生まれ、従来の説に再検討を促している。作域は、湾れを主調とするもの、丁子や互の目の交じる変化のある華やか名乱れ刃、角互の目主調の出来、青江風の直刃など多彩である。

 初代:大宮盛景の現存する製作年紀は、康安二年紀が最古で下限は応永元年に及んでいる。本作の工は、鏨使いに一派独特の逆鏨の態は見受けられず、初代:盛景の最終年紀:応永元年(1394)より41年後の永享7年(1435)の製作年紀であることから、二代、または三代の盛景であると推察される。備前長船の正系であれば、右京亮二代康光の頃であり、所謂「永享備前」のあたり、身幅のわりに寸が延びた短刀姿に、「応永備前」よりもやや反りがつきはじめ、地鉄は、些か応永備前よりも肌立ちて、康光にも多く見受けられる匂本位の直刃をやき、直ぐ映りがたっている。鑑賞としても充分ではあるものの、刃区を観察すると相当に研ぎ減りが感じられ、地鉄も疲れており、焼刃も帽子付近はかなり弱いことは否めない。

 

 鞘書によれば本短刀の由緒は、「文政十三年寅年三月廿二日御小姓能勢主殿頭与請取 備前国盛景御脇差代金子三拾枚 長九寸壱分 水戸源哀殿御遺物 西丸江」「三函廿」と記されている。御三家のひとつ水戸徳川家 8代藩主:徳川斉脩(哀公)の御遺物であり、9代藩主:徳川斉昭(烈公)より、将軍家(大徳川家)12代将軍:徳川家慶公に献上された品であるという。

 徳川斉脩(哀公)は、水戸徳川家:8代藩主にして、その正室は11代将軍:徳川家斉の七女・峯姫(12代将軍:徳川家慶の異母妹)を妻とする。文政12年10月4日、33歳で病没し、弟の徳川斉昭(烈公)が9代藩主として後継する。

 「徳川実紀」(文恭院殿御実紀-11代将軍:徳川家斉の記録)には、天保元年(文政十三年)「三月六日水戸斉昭卿使して源哀斉脩卿遺物来国俊の小脇ざしをまいらせる」と記されており、3月6日に水戸徳川家を継いだ弟の徳川斉昭(烈公)が、11代将軍:徳川家斉に徳川斉脩(哀公)の遺物として来国俊の脇指を献上したと記されている。

 一方、本短刀の鞘書に記される「御小姓能勢主殿頭」とは、「寛政重修諸家譜」「武鑑」にその名があり、能勢政吉頼常といい、800石の旗本であるという。寛政5年、十二代将軍:徳川家慶の生誕と同時にその御伽・小姓衆となる。爾来、徳川家慶の小姓衆を長く務め、本短刀が献上された文政13年の2年前にあたる文政11年には、西丸小姓頭取であったようである。

 そして、「西丸江」とあるが、江戸城では、「本丸」は将軍が居住する場所であり、「西の丸」は隠居した将軍、または、将軍の次期後継者が居住する場所であった。当時であれば、「本丸」は11代将軍:徳川家斉がおり、「西の丸」は将軍の後継者として、12代将軍:徳川家慶がいたことになる。

 以上のことより、本短刀は、徳川斉昭(烈公)が、11代将軍:徳川家斉に徳川斉脩(哀公)の遺物として来国俊の脇指を献上したのと前後して、次期将軍であり、徳川斉脩(哀公)の正室:峯姫の異母兄にあたる、12代将軍:徳川家慶に遺物として献上したものと思量される。日付も徳川家斉に献上された3月6日に対して、3月22日と差違がなく自然である。残念ながら、本短刀に関する記述は、徳川家慶が将軍に就任する天保8年より以前のため「徳川実紀」に記述はない。

 しかし、この鞘書を他の方面から検証してみると、まず、「水戸源哀殿御遺物」と「殿」と記されている。例えば、「桂昌院様」などと「様」と記されたものをまま見受けるが、「殿」と「様」では大きな違いが存在する。それは、「殿」の場合は家格が同格、または、それより劣る家に対して、「様」の場合は家格が上の家に対して使用しなければならない。従って、本短刀が御三家のひとつ水戸徳川家より家格が劣る一般の大名に贈られたものであれば「様」を使用することになる。しかし、鞘書には「殿」と記されており、これより勘案すれば水戸徳川家と同格、或いは、それ以上の家格となれば将軍家(大徳川家)と同じ御三家である尾張徳川家・紀州徳川家のみとなる。そこで、鞘書の「西の丸」を将軍家・尾張家・紀州家の各々の城で調べてみると、尾張家の名古屋城の西丸は米蔵であり、紀州家の和歌山城の西丸は藩主の隠居所であり、やはり将軍家の江戸城の西の丸を意味するものと考えられる。補足ながら、「三函廿」とは3番目の刀箱の20番という意味であり、これは将軍家伝来のものに見受けられる蔵番である。

 なお、識者の見解によれば「備前国盛景御脇差代金三拾枚 長九寸壱分 水戸源哀殿御遺物」の箇所は徳川斉昭(烈公)の自筆による可能性があり、徳川斉昭(烈公)は書を好み、水戸徳川家や周辺の大名家には同様の鞘書が現存する。他の部分はお家流の書で記され、当時の腰物奉行によるものであろう。

 伝来もさることながら、本短刀も「備前物」として大名家間で刀剣の贈答に使用されており、資料的にも貴重といえる。

 

 余談ながら、この鞘は元来は共柄といい、柄とハバキ部分をひとつの木で一体化して製作したもの(木ハバキとは異なる)と想われる。残念ながら後世に、ハバキの部分を切断し、金属のハバキを製作したのであろう。現在では、共柄は高度な技術が必要なため、殆どつくられることがないが、江戸時代の将軍家をはじめとする大名家では、「休め鞘」と称し共柄の白鞘にいれて保管したようであり、このような鞘には名刀や伝来の良いものが多いといわれている。また、機能的にも、金・銀・銅いずれの金属で作られたハバキでも鉄で製作された刀と接触すれば、そこから錆などが発生する原因になる。

 登録証も東京都の昭和26年登録となっており、「大名登録」「お屋敷登録」などと呼ばれるものであるが、東京の登録は2万番台くらいまで26年登録である。しかし、本短刀の3000番台などはなかなか見る機会は多くなく、将軍家かどうかまではわからぬものの、通常の家の登録番号では無いことだけは確かといえる。

備考

末古刀 中上作。

良業物。

 

わずかにヒケ・小錆があります。

 

登録証の交付日は昭和26年でしたが、古い登録証なので状態が良くなく、当店で再交付の手続きを行いました。よって、新しい登録証では、番号は変わりませんが日付は再交付日の平成21年4月14日と記されています。

大宮盛景7
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