心慶胤光

保存刀剣 NBTHK Hozon Paper

No.A00131

白鞘  赤銅着一重時代ハバキ

寒山新刀辞典 所載

     売 約 済

刃長 : 39.6cm  (1尺3寸0分半) 反り : 0.4cm  (2分強)

元幅 : 3.0cm 元重 : 0.7cm

登録証

栃木県教育委員会

昭和26年07月16日

: 常陸国 (茨城県-中部・東部)

時代 : 江戸時代後期 慶応三年 1867年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

保存刀剣鑑定書

平成18年01月13日

心慶胤光造

慶応三年二月日

形状

刃文

帽子

平造、庵棟、身幅やや広めに、重ね厚く、寸延び、先反りつく、。

小板目肌つみ、地沸細かによくつき、地景入り、中程に黒い異鉄交じり、淡く映りたつ。

互の目に、丁子交じり、処々逆がかり、逆足入り、匂本位に小沸つき、砂流しかかる。

乱れ込み、先尖って返る。

生ぶ、先栗尻、鑢目筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明

心慶胤光は、本名を須藤栄吉と称し、天保3年4月14日に須藤粂右衛門の長男として常陸国真壁郡中館村(現在の茨城県筑西市下館)に生まれる。幕末の名工、大慶直胤の門人となり、土浦藩主:10代土屋寅直の時に長尾家(文殊包定)の名跡を継いでお抱え刀鍛冶となる。土浦藩の藩士録のひとつである「土浦分限帳」によれば、胤光は安政3年、同5年、同6年、万延元年と四度にわたり修業に出ており、明治2年には定録米二十俵であった。

土浦藩土屋家は、幕末の世上不安定な時期に直面して刀鍛冶の必要性を認識し、当時の名工として知られた大慶直胤の弟子の中から、常陸出身で23歳と年相応の胤光を嘉永7年に藩士として取り立てた。胤光は嘉永7年より土浦藩に「先手組格」として仕えた後、万延元年までの6年間を殆どを修業に費やしたと思われ、そして、万延元年7月10日をもって「格式到来方列刀剣鍛師」を申しつけられ、土浦藩に正式にお抱え刀鍛冶として認められる。しかし、明治9年、胤光が45歳の刀工としての技倆が冴えわたってきた時期に廃刀令が布告され、刀が打てなくなったことに胤光の心境が如何ばかりであったことかは想像に難くない。その後、新治郡真壁町(現在の茨城県土浦市真壁町)に移住し、野鍛冶を職業とし、その傍らで刀剣商もしていたと伝えられる。

彼の作刀期間は、確認される裏年紀のあるものには、安政2年より明治4年頃までのわずか15年間程と非常に短く、現存する作品は70振程と多くない。

この脇指は、大振りな迫力ある平造りに、刃区には生ぶ刃が残っている程に健全であり、地鉄はよくつみ、刃文は師である大慶直胤に迫る備前兼光写しの入念作である。

備考

新々刀 中上作。

 

保存刀剣鑑定書では、慶応三年の「三」を□(四角)でくくります。

心慶胤光1
心慶胤光2
心慶胤光3
心慶胤光4

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