保存刀剣 NBTHK Hozon Paper |
No.A00116 |
(附) 黒石目地塗下がり藤紋影蒔絵鞘小サ刀拵 白鞘 金鍍金一重ハバキ |
売 約 済 |
刃長 : 24.2cm (8寸0分半) 反り : なし 元幅 : 2.35cm 元重 : 0.8cm |
登録証 : 神奈川県教育委員会 昭和26年03月24日 |
国 : 陸奥国 (青森県・岩手県・宮城県・福島県) 時代 : 江戸時代後期 慶応元年 1865年 |
鑑定書 : (公)日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書 平成14年02月08日 |
銘 : 岩野道俊作 慶応元乙丑歳八月日 |
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形状 : 鍛 : 刃文 : 帽子 : 茎 : 平造、庵棟、身幅尋常にて、重ね厚く、反りのない上品な短刀姿を呈す。 小板目肌つみ、地沸細かによくつき、地景入る。 浅いのたれ、わずかに小足入り、小沸よくつき、細かな砂流しかかる。 浅くのたれ、大丸にやや深く返り、先よく掃きかける。 生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違化粧つく、目釘孔一。 |
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説明 : 岩野道俊は、竹蔵と称し、蟠竜斎と号す。盛岡藩南部家の刀鍛冶となる。江戸下谷に住すという。諸書には、三善会津道長門、尾張犬山の道賀門、本国越後、道寿同人などとあるがいずれも依るべき資料はない。唯一、南部藩の「諸職人末々之者身帯帳」に「一生二人扶持御出入刀鍛冶岩野竹蔵」とのみ記述があり、いつ頃南部藩に抱えらたか、無論、生国、没年共に不明である。銘文に「東叡山」と切ったものがあり、「東叡山」とは、現在の東京:上野にある東叡山寛永寺の意で、下谷は寛永寺の門前町であり、道俊がその周辺で鍛刀していたようである。彼は南部藩工であっても、本国ではなく江戸詰のお抱え工であり、それは「奥州住」「盛岡住」などの銘文がないことからも推測される。 作刀は、嘉永から明治初期に及び、作風・茎仕立て・鑢目・「俊」の通字などの点から長運斎綱俊門と考えるのが一番自然と思われる。他の南部藩工では、宮川秀一と新藤義国八代一心斎は長運斎綱俊の高弟である石堂運寿是一の門人である。また、運寿是一自身も奥州盛岡橋野山(現在の岩手県釜石市)の餅鉄を使用して鍛刀したものが銘文にのこされている。これらの点から南部藩工と長運斎綱俊門あるいは運寿是一との間に相当の交流があったようである。 道俊の作風は、長運斎一門と同様に互の目乱れの備前伝をもっとも得意とし、他にのたれ、強く沸づいたもの、稀に直刃もある。道俊の作品はそれほど多くなく、また、地方の奥州刀工ということもあり、あまり有名ではないが経眼する作品はいずれも上手であり、新々刀の上工と比較してもそれほど遜色がない程である。銘文に「以餅鉄造之」などがあり、良質な鉄の原材料として南部藩の近郊で採れる「餅鉄」を使用していたようである。 この短刀は、品の良い短刀姿に、地鉄は小板目肌つみ、地拂よくつき、地景入り、精美な肌合いとなり、刃文は浅いのたれ刃を焼き、よく調和している。同工の技倆の高さが窺える優品である。時代の小サ刀拵が附帯していることも好ましい。 |
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<餅鉄について> 「餅鉄(もちてつ)」とは、川から採取される磁鉄鉱石である。たたら製鉄などの古代製鉄において、砂鉄と並ぶ重要な原料として盛んに採集、利用され刀剣の材料にもなる。成分は60%以上が酸化鉄で、砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいといわれる。産地は岩手県釜石市を中心に周辺の河川で採取される。 餅鉄という名称については形状が餅に似ているという説、粘性が高く餅の様なので餅鉄と呼ばれたという説がある。道俊の主家である南部家は早くから藩の庇護のもと南部鉄器の生産に力を注いできた。その関係もあり近郊の釜石で採れる餅鉄を道俊も入手しやすかったのであろうか。他に餅鉄を銘文に切った刀工に大慶直胤、左行秀、運寿是一などがいる。 |
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備考 : |