大慶直胤

特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper

No.A00109

白鞘  金着二重ハバキ

      売 約 済

刃長 : 30.6cm  (1尺0寸1分) 反り : 0.6cm  (1分半)

元幅 : 2.75cm 元重 : 0.6cm

登録証

千葉県教育委員会

昭和28年03月24日

: 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)

時代 : 江戸時代後期 安政三年 1856年

鑑定書

(公)日本美術刀剣保存協会

特別保存刀剣鑑定書

平成20年01月28日

七十九翁 藤原直胤(花押)

安政三年二月日

形状

 

刃文

帽子

彫物

平造、庵棟、身幅頃合にて、重ねやや厚く、寸延び、先反りつく。

大板目に大杢をさかんに交え、渦巻肌状となり、地沸つき、地景太く入り、肌顕著にあらわれる。

のたれ調に互の目・小互の目、処々片落ち互の目交じり、乱れ、足入り、沸よくつき、金筋入り、砂流しかかる。

乱れ込み小丸にて、返りやや深く返り、先掃きかける。

表裏に腰元に薙刀樋、その樋先より菖蒲樋を加えた独特の彫物がある。

生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違い化粧つく、目釘孔一。

説明

大慶直胤は、安永7年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、大慶と号した。文政4年頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年に上洛して美濃介に転じている。彼は若年の折に江戸に出て、水心子正秀の門に入り、後に師:正秀同様に秋元家に仕え、細川正義と共に水心子門下の双璧となった。水心子入門の時期については明らかではないが、彼が23歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘のあることから、これより2、3年前の寛政11、12年頃と推察され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政4年5月7日、79歳で歿している。

50年以上の長い作刀期間があり、技量的にも師:正秀を凌駕し、師:正秀が晩年に唱えた復古論を実践し、世に広めたのは実際には直胤であるといわれている。現に、新々刀期の刀工で重要美術品を輩出したのは僅かに四工であり、山浦清麿:4振、大慶直胤:3振、左行秀:2振り、水心子正秀:1振のみとなっており、その技量の高さを物語っている。持ち前の器用さと鋭敏な感覚、長期の作刀期間、生涯で二度におよぶ材料の鉄研究等の旅に意欲的に出ている探求心などの為、作風は広範囲にわたり五ケ伝の山城伝・大和伝・相州伝・備前伝・美濃伝の全てに通じるのは、直胤の他にはあまり思い浮かばない。なかでも、備前伝・相州伝を最も得意としている。彼の作品は造込み・茎仕立て・刃文・彫物・銘文なども当時から洗煉されており如何にも洒落ているものが多い。

この短刀は、地鉄は、大板目に大杢をさかんに交え渦巻肌状となり、地景が太くいり、刃肌が顕著にあらわれ、様々な景色をみせている。刃文は、のたれ調に互の目を交え、沸が総体に厚く強くつき、部分的には荒拂に近い程である。刃中には、地鉄の地景同様に力強い金筋と細かに働く砂流しが見事である。直胤の最も得意とした備前伝・相州伝のうち、所謂、相州伝による優品であり、最晩年の作品ながら迫力に満ちており、正に、「老いては益々壮んなるべし」である。

直胤は、安政4年5月7日に79歳で歿してるが、本作の銘文は、「安政3年2月日 79翁」であり、他に「安政3年8月日 80翁」「安政4年春 80翁」「安政4年正月日 81翁」など、実年齢より年齢を繰り上げて切ったものがある。これは直胤の「喜老癖」によるものであり、晩年の作にまま見受けられる。また、「藤原」の「原」を省略して「藤」の一部に入れ「藤」と一字にしたものも同様である。

備考

新々刀 最上作。

 

特別保存鑑定書では「日」を□(四角)でくくります。

大慶直胤1
大慶直胤2
大慶直胤3

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