特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper |
No. A00105 |
白鞘 佐藤寒山先生鞘書 金着一重ハバキ |
売約済 |
刃長 : 68.0cm (2尺2寸4分) 反り : 1.8cm (6分) 元幅 : 2.95cm 先幅 : 2.1cm 元重 : 0.8cm 先重 : 0.5cm |
登録証 : 千葉県教育委員会 昭和26年03月31日 |
国 : 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部) 時代 : 江戸時代後期 天保7年 1836年 |
鑑定書 : (公)日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書 平成19年07月03日 |
銘 : 固山宗平作之 天保七年二月日 同年三月廿六日 於千住後藤五三郎試之雁金土壇拂 |
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形状 : 鍛 : 刃文 :
帽子 : 茎 : 鎬造、庵棟、身幅尋常、重ね厚く、先反りつき、中鋒延びごころの優美な姿。 小板目肌よくつみ、地沸細かによくつき、地景入り、精美な肌合いを呈す。 丁子に頭の丸い互の目・尖りごころの刃・小互の目など交じり、やや小模様となり、足長くさかんに入り、匂口やわらかく、匂勝ちに小沸つき、小さく金筋入り、細かに砂流しかかり、匂口明るい。 乱れこんで、先やや尖りごころに返る。 生ぶ、先浅い入山形、鑢目筋違い、目釘孔一。 |
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説明 : 固山宗平は、陸奥白河に生まれ、俗名を宗兵衛といい、白竜子と号す。弟に宗俊・宗次がいる。彼の師は加藤綱英と伝えられているが、その作風から勘案すれば、むしろ弟の加藤綱俊の影響力が大きいものと思われる。初期には、白河で鍛刀し、その頃の銘文に「奥州白河於阿武隈川辺」などがある。文政6年、白河藩松平家の伊勢桑名への転封にともない、桑名に赴いている。天保頃、下総古河藩土井家に抱えられる。後に、弟宗次と同様に再び旧主:桑名藩松平家に抱えられている。天保14年頃、江戸にて没する。子に二代:宗平がおり、一進斎と号す。彼の作風は、弟宗次と同じく備前伝に終始しており、地鉄のよくつんだ綺麗な鍛えに、匂勝ちの丁子乱れを焼いて成功しており、中には弟宗次の作に勝るとも劣らぬものもある。稀に弟宗次との合作もある。 この刀は、宗平の古河藩工時代の作品であり、地鉄は、小板目がよくつんでいるものの、無地風とはならず、地沸つき、地景入り、強い鍛えをみせている。刃文は、彼の得意とする備前伝を焼き、小丁子乱れに、小互の目・尖り刃など交じり、足長くよく入り、匂深く、締まりごころに小沸がよくつき、細かに砂流しがかかるなどの出来口をみせている。地刃ともに明るく冴え、一見すると弟宗次の「天保打」に見紛う程の出色の出来で、同工の技倆の高さが窺える同作中の優品であり、地刃共に健全であることも好ましい。佐藤寒山先生も鞘書のなかで「同作中の傑作也」として大いに賞賛されている。 山田朝右衛門吉利の截断銘も資料的に貴重であり、吉利は第七世:山田朝右衛門として公儀御様御用である刀剣の試し斬り役を務めた。旧名は後藤五三郎、山田家に養子入りして改名した。弟宗次の作にもまま吉利の截断銘が見受けられる。この頃の刀剣には、截断銘が比較的に多くみられ、総じて出来の良いものが多い。他には運寿是一、高橋長信、松軒元興などにもある。 |
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<山田朝右衛門吉利について>
山田朝右衛門吉利(やまだあさえもんよしとし、文化10年(1813年) - 明治17年(1884年)12月29日)は第七世山田朝右衛門として江戸時代に公儀御様御用(こうぎおためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた人物である。「吉利」は勝興寺の墓誌には「吉年」とある。旧名は後藤五三郎、山田家に養子入りして改名した。雅号を和水と称した。 吉利は備中新見藩の藩士後藤五左衛門の次男であった。山田朝右衛門の襲名は先代の出家が1847年であることからそれ以前であろうと推定されている。 吉利は据物斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、公儀御用のほかに御三家御用、さらには公儀腰物拝見役を拝命した。これは歴代の山田朝右衛門にはなかったことである。吉利は家譜(「源姓山田家系譜」という)に「先祖に先例なき特典なり」と割り注を入れている。また、吉利はこれに伴う扶持米を「先祖より浪人の分にて」として辞退している。 1868年5月27日、吉利は市政裁判所から「市政裁判所附」を命じられ、翌1869年には山田家伝来の名刀「備前長船景光」(通称:小竜景光)を宮内省に献上した。宮内省は奇特な行為として500円を下賜したが、これを明治天皇による買い上げと見る説もある。 1869年、吉利は家を長男の浅雄に譲り、隠居して麹町平河町(現、千代田区)二丁目の本宅から同八丁目清水谷上の隠宅へ移った。 1870年4月15日、政府は山田家家伝の製薬の「山田丸」(浅右衛門丸・人丹などとも称する)など、人間の肝臓や脳味噌などを材料とした薬の販売を禁止した。 1872年の壬申戸籍編成に際して吉利は隠居のままに一家を新たに興し、販売禁止の製薬「山田丸」のみを吉利の家へと分け、山田家本家から「山田丸」を分離させた。なお、麹町区の「除籍簿」(58号)には「平民」とある。 吉利の墓は勝興寺(新宿区須賀町8番地)と正源寺(港区白金2丁目7番地19号)とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためである。正源寺は実家の後藤家の菩提寺であった。 勝興寺の墓誌には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田朝右衛門吉年、行年七十有二歳」とある。 (参考 : Wikipedia)
※ 山田浅右衛門について詳しくは 【山田浅右衛門一覧】 を参考ください。 |
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備考 : 新々刀 上々作。
佐藤寒山先生鞘書 「固山宗平作之 天保七年二月日 後藤五三郎截断銘入 同作中の傑作也 刃長 二尺二寸五分有之 昭和辛亥年弥生吉祥日 寒山誌(花押)」 |