商品詳細

大刀剣市 カタログ掲載品

脇指 (無銘) 伝 村正

Wakizashi [Den Muramasa]
保存刀剣
NBTHK Hozon Paper
No. F00302
(附)古鞘・下げ札
田野辺探山先生鞘書
白鞘 金着一重鎺

刃長 : 53.7cm(1尺7寸7分強) 反り : 0.9cm(3分) 

元幅 : 2.9cm 先幅 : 2.2cm 元重 : 0.5 先重 : 0.35cm 

登録証:

東京都教育委員会
昭和26年3月31日
国: 伊勢国 (三重県-北部・中部)
時代: 室町時代後期 永正頃 1505-1520年頃

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
保存刀剣鑑定書
令和4年3月2日
銘: (無銘)伝村正
形状 : 鎬造、庵棟、身幅・重ね尋常に、反り浅くつき、中鋒となる。
鍛 : 板目つみ、処々柾がかり、肌立ちごころに、地沸厚くつき、地景入る。
刃文 : 広直刃調に小互の目・小丁子など交じり、足・葉よく入り、匂深く、小沸よくつき、ささやかな砂流しかかる。
帽子 : 直ぐに小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : 腰元に、表は梵字に蓮台、裏は喰い違いの二筋樋を掻き流す。
茎 : 大磨上、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一。

説明:

千子村正は室町時代後期の伊勢国を代表する刀工で、同国桑名の地に住した。慶長十七年の奥書がある「竹屋直正伝書」には、「村正 勢州桑名住村正と打 只村正と計も打 妙台と号 三代同銘 延徳頃」の記述が見受けられる。現存する上限の年紀は、文亀元年で、刀が二口違存し、それ以後も同銘の継承が見られるが、通説では、文亀のものを初代、天文を二代、天正を三代としている。その中で二代とされているものが数多く現存しており、作柄の平均点も高い。

古鞘には「□□(村正) 長壱尺七寸七分 磨上無銘御脇指但村正之銘有御刀磨上ル 池田庄右衛門様ゟ(ヨリ)」、下げ札「故御腰物方 本銘(もとのめい)村正 長壱尺七寸七分五厘 明治八年六月改 池田庄右衛門様ヨリ来ル」とあることから、元来は村正の銘が有った刀であったことが窺い知られる。それを磨り上げにより短く詰められて刀から脇指の寸法に仕立て直しが施され、残念ながらその際に銘は失われてしまっている。元来の刃長は茎に残された彫物の位置から推測すれば2尺(約60.6cm)前後の打刀の形式であったものと思量される。所持者であった池田庄右衛門なる人物については詳細は不明ではあるが彼の人物の活躍時期は文亀頃と初代村正のそれと概ね合致し、梵字や蓮台の彫物や地刃が一段と強く沸づく作風よりも初代村正と鑑せられる。。村正の刀によって数多くの厄災の被った徳川家により江戸時代には村正帯刀禁止令が発せられた。想像を豊かにすれば幕府に対して村正の刀を所持することの発覚を怖れ無銘として秘蔵したものであろうか。某大名家に伝来したものであることは想像に難くないが、池田庄右衛門なる人物やその子孫が、その後に伊勢国津藩藤堂家に仕えていることから同家に所縁の品の可能性もある。

 


 

南山五家とは、大原氏・和田氏・高嶺氏・多喜氏・池田氏を指す。五家による、おおよその支配地域は、東は甲賀市神、西は浅野川、南は油日、北は甲賀市大原である。
池田氏は、藤原を祖とする氏族である。「諸氏帳」には池田太郎定信。庄三郎信輝、「正徳二年自記」には池田庄右衛門の名と池田城の名が見える。領地は馬杉庄池田保であり、奉行衆とも考えられている。城は、池田東城と池田西城が知られている。領内には中野城他、五城の名があがっているが、いずれも詳細は不明である。

(参考) <財団法人滋賀県文化財保護協会 紀要第19号(2006.3)>

備考:

末古刀 最上作

 

古鞘

「□□(村正) 長壱尺七寸七分

磨上無銘御脇指但村正之銘有御刀磨上ル

池田庄右衛門様ゟ(ヨリ)」

 

下げ札

「故御腰物方 本銘村正 長壱尺七寸七分五厘 明治八年六月改

池田庄右衛門様ヨリ来ル」

 

田野辺探山先生鞘書

「勢州桑名住右衛門尉藤原村正 但磨上無銘而刃長壱尺七寸七分半有之 時在壬寅季神無月 探山識(花押)

磨上無銘而研溜カラ茎上部ニカケテ梵字・蓮台・段違ニ二筋樋ノ彫ガ残存シ曽テ寸詰マリ打刀ナリシ支ガ知ラル附帯スル古鞘ニハ村正在銘デアリシ態ノ者ヲ磨上ゲテ無銘トナリ池田庄右衛門ヨリ到来デアル旨記サル板目肌立心ノ地鉄ニ広直刃調ニ小丁子・小互の目交ジリノ刃文ヲ焼キ腰元ニ小湾ヲ交ヘ初代村正ト鑑セラル」

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