商品詳細

刀 膳所堀井胤吉作

慶応丙寅五月日

Katana [Horii Taneyoshi]
保存刀剣
NBTHK Hozon Paper
No. A00639
白鞘 金着一重鎺

刃長 : 75.2cm(2尺4寸8分) 反り : 1.4cm(分) 

元幅 : 3.2cm 先幅 : 2.55cm 元重 : 0.7cm 先重 : 0.55cm 

登録証:

東京都教育委員会
平成七年七月十一日
国: 近江国 (滋賀県)
時代: 江戸時代後期 慶応二年 1866年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
保存刀剣鑑定書
平成三十一年二月二十五日
銘: 膳所堀井胤吉作
慶応丙寅五月日
形状 : 鎬造、庵棟、身幅広め、重ね尋常に、元先の幅差少なく、反り浅くつき、大鋒となる。
鍛 : 板目、少しく杢交じり、総体に柾がかり、肌立ちごころに、地沸厚くつき、地景よく入る。
刃文 : のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、沸よくつき、金筋入り、砂流しかかる。
帽子 : 直ぐ調に浅くのたれて小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : (なし)
茎 : 生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明:

初代:堀井胤吉は、本名を堀井来助といい、刀銘を胤吉(吉文同人)、文政4年、近江国滋賀郡石山村大字鳥居に農鍛冶:堀井久五郎の四男として生まれた。天保8年、17歳で父に死別し、弘化元年、24歳のときに大坂に出て月山貞吉に入門し、師の一字「吉」を貰って「吉文」と号し、嘉永4年、31歳のときに月山貞吉の紹介で大慶直胤に57番目の弟子として入門、翌嘉永5年2月、門を辞して故郷に帰り、安政2年、秘伝書と師の一字「胤」を受けて「胤吉」と号した。文久2年、膳所藩本多家の家老:村松静寛の支援により同藩に仕え、その後、明治維新の廃刀令により苦難の道を歩むが、明治28年、75歳のとき、滋賀県社寺係笠井氏の紹介により、宮内省式部次官三宮義胤男爵に招聘されて同邸内の鍛刀所で作刀し、同28年11月に宮内省御用刀匠を拝命し、堀井家一門の基礎を築いた。

 胤吉は生涯妻をめとらず、専心鍛刀に打ち込み精進を続けた。明治26年5月、胤吉が73歳の時、文豪:島崎藤村と滋賀県石山において出会ったこと、資料により判明しているが、その藤村が、胤吉のことを次の如く評している。「すぐれた刀工の技術者であるのみならず、詩歌や書もよくし輿地誌略(世界地理)に関心を持つなど清貧を楽しむ隠者的性格の人物であった」とあり、また「刀鍛冶堀井来助」「茶丈記」「何物をか吾物涯に与えし旅」「芸術の保護」「眼鏡」「力餅」等に来助の名人気質をたたえ、彼の精神の中に藤村の詩神、即ち芸術精神、の如実な体現を感じとっているのであった。これらの資料からも、如何に初代:胤吉が高潔にして清貧にあまんじ、黙々として我が道を行く人物であったといわれている。

 胤吉は、明治3年、膳所藩を退いてから鍛刀一筋とはいいながら宮内省御用の拝命まで25年間の空白があり、ここに鍛刀作業を再開できたことは、胤吉にとって何にも変えがたい喜びであったことかは、三宮男爵のこの好情に対して以後専心精魂を鍛刀に傾注し、毎年春秋2振の作刀に神仏の加護をいただきながら精進したと伝えられる。

 明治36年8月、病におかされるや、男爵をはじめ宮内省関係者の手厚い看護をうけながら、日赤病院で83歳をもって歿した。この年の元旦、胤吉は俳句を好み益水と称して多くの作品を遺した。

 本作は、明治2年の紀年銘がきられており、胤吉47歳の作となる。形状は、鎬造、庵棟、身幅広め、重ね尋常に、元先の幅差少なく、反り浅くつき、大鋒となる。地鉄は、板目、少しく杢交じり、総体に柾がかり、肌立ちごころに、地沸厚くつき、地景よく入る。刃文は、のたれ調に互の目・小互の目交じり、足入り、匂深く、沸よくつき、金筋入り、砂流しかかり、帽子は、直ぐ調に浅くのたれて小丸に返り、先掃きかけるといった出来口をみせ師の大慶直胤と月山貞吉が得意とした相州伝を彷彿とさせる。堀井胤吉の優刀で、彼の作風と技量の高さをうかがい知ることができる。

備考:

鎺の表面に当たりがみられます。

詳細写真1
詳細写真2
詳細写真3
詳細写真4
詳細写真5