商品詳細
刀 兼元(初代) (古刀上作)(業物) 兼音 (古刀中上作) Katana [Kanemoto and Kaneoto Collaboration]
|
|||||||||||||
特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper
|
No. A00580
|
||||||||||||
白鞘 田野辺探山先生鞘書 上貝金無垢下貝金着二重時代鎺
日本刀関七流・美濃刀大鑑 所載 |
|||||||||||||
刃長 : 65.0cm(2尺1寸7分強) 反り : 1.3cm(4分) 元幅 : 2.6cm 先幅 : 1.7cm 元重 : 0.5cm 先重 : 0.35cm
|
登録証: 東京都教育委員会昭和30年6月25 日 |
||||||||||||
|
鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会特別保存刀剣鑑定書 令和2年6月25日 |
||||||||||||
|
|||||||||||||
|
|||||||||||||
説明: 兼元は、二代:孫六兼元が著名であるが、稀に初代の作品が現存する。その作風は二代が尖り互の目による三本杉を得意としているのに対し、初代はあまり三本杉が目立たず、互の目に互の目丁字を交えるものが多く、時として湯走り・飛焼のかかったものを経眼する。また年紀は明応6年が最も古く、以下明応8年・9年・10年などがあり、居住地を明示したものは全てが「濃州赤坂住」と切られている。 兼音は、六郎左衛門尉、のちには右衛門尉と改め、法名を道慶といい、宝徳二年系図では兼長の孫、古刀銘盡大全では兼国の子している。成年は「濃州関住衛門尉兼音七十二二(四)、明応四年二月日」の作刀が遺されており、逆算すると応永29年(1422)となる。作刀期間は、嘉吉から明応の頃におよび、文明16年、明応3年、明応4年の作例がある。 山田英師が著された「日本刀関七流」には「兼元兼音合作 二尺一寸八分 反四分二厘 鷹羽鈩急 一戸公哉所持 昭和二十八年四月研上之大サビ弥残」「兼元、兼音合作刀 長二尺一寸八分、反四分強 なかごの鎬高く、剣形、鷹羽ヤスリ、銘表に兼元、裏に兼音、兼茂のなかごと全く異なる仕立てであるが、同人兼元と兼音の合作として貴重な銘である。非常に鎬筋の高い菱形の造込。鉄質精良、刃文は兼則に似て、稍小出来ながら清烈な冴え味と迫力が抜群である、清関兼元の実力が推察される。残念ながら戦災の大錆で上身は廃品寸前の状態となった。しかも刃染等のない澄んだ焼刃と優秀な鉄質によって、確信性不動の作と思われる。」と記されている。切先より約30cm下の中程のところに小さな刃こぼれと、同じく裏面の刃の中にごく小さな水錆の痕跡が5ヶ所ほどみられるが、これが戦災の大錆であったものと思われる。昭和28年に、差し込み研ぎの名人であった山田英師の手によって研ぎ上げられ、約70年の年月を経て現在に至る。山田師も「刃染等のない澄んだ焼刃と優秀な鉄質によって、確信性不動の作と思われる。」と称賛されており、わずかに小さな錆跡の痕跡をとどめているものの、美濃刀の魅力を優れた研磨とともに余すことなく顕現した一振りである。なお、時代の金鎺は上貝は金無垢であり、当時いかに大切にされていた一振りであったかを物語っている。なお、田野辺探山先生の鞘書に記されているように、一説に兼元(初代)と兼音は、兼国の子とも伝え、その説に拠れば兄弟の合作ということになり資料的にも貴重である。 また、当時の所有者であった一戸公哉氏とは、旧:日本陸軍の第51軍の高級参謀をつとめた一戸公哉中佐でようである。
|
|||||||||||||
備考: (兼元)古刀上作 業物 (兼音)古刀中上作
田野辺探山先生鞘書 「美濃国兼元・兼音 生茎指表ニ兼元裏ニ兼音ノ何レモ二字銘有之明応年間ノ所作而兼元ハ孫六ノ父ニ当タル初代也一説ニ両者ハ兼国子ト伝ヘ候 合作ハ珍敷ク好資料ナリ 白気映立チ柾ガカツテ流レル板目ノ肌合ニ尖刃主張互乃目ジリノ刃文ヲ焼キ沸付キ火炎風の帽子ニ結ビ活気ニ溢レ見所多キ優品哉 長弐尺壱寸七分余 峕𥝝令和元巳亥極月探山識(花押)」
|