商品詳細
短刀 長運斎是俊造之 彫同作(二代綱俊) 安政二二年正月吉日 (新々刀中上作) Tanto [Chounsai Koretoshi , Tsunatoshi 2nd]
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特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper
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No. A00546
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(附) 黒石目地塗朱蒔絵塗鞘合口拵
白鞘 銀着一重鎺 |
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刃長 : 22.9cm(7寸5分強) 反り : なし 元幅 : 2.7cm 先幅 : 2.5cm 元重 : 0.5cm 先重 : 0.5cm
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登録証: 新潟県教育委員会昭和27年5月28日 |
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鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会特別保存刀剣鑑定書 平成27年8月17日 |
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説明: 初代:綱俊は本国が出羽国米沢で、加藤八郎といい、兄に加藤綱英がいる。二代:綱俊は綱俊の次男で、安政2年頃に長運斎の号を父から譲られ初代は長寿斎と号し、また文久3年の父歿後には二代目綱俊を襲名した。初代・二代の父子合作も比較的に多くみられ、初代の晩年にはその代作も為すという。是俊は初代:綱俊の高弟であった青龍軒盛俊の門で修行し、周防国岩国から江戸に戻った。安政4年は是俊が20歳にあたる。 おそらく造の作例は、比較的に各時代にあり、新刀期ではやはり島田助宗の流れを汲む山城守国清、新々刀期には再び流行をみせ山浦一門に多く山浦清麿、栗原信秀などに作例がある。 本作も、大切っ先の部分が約16.5cmにおよび堂々としたおそらく造の形状をなしている。島田助宗作の本歌と同様に指表に「おそらく」の文字を陰刻している。指裏には櫃内に「大黒天」を浮彫しており長曽弥虎徹興里の彫物に通じる構図をみせており、こちらは本歌にはみられないもので是俊によるアレンジによるものであろうか。 附帯する黒石目地塗朱蒔絵塗鞘合口拵は、鞘は紅葉と銀杏の葉を朱塗りに銀色を加えて秋を表現し撫子の金具で初夏を想わせ、柄は白糸にて平巻で仕上げている。中身の短刀と同時期に製作された保存状態の良い茶人好みの拵えである。
<おそらく造り(恐らく造り)> 短刀の切先が刃長の半分以上を占めるような造り。「おそらく」の語源について、古来の定説はないが、今日では、恐らくこんなものは他にあるまいとか、恐ろしい短刀とかいう意味に推測されている。「埋忠銘鑑」に、もと本阿弥光甫の差料で、寛永2年(1625)極月26日、片桐且元の嗣子:出雲守孝利に金二枚で売った、という島田助宗二字銘、刃長7寸7分(約23.3cm)の短刀の刀身に、「おそらく」と彫った押形が載っている。 藤枝英義は横手の線がなくて、鎺元からすぐ切先になったものまで、おそらくと呼んでいる。しかし、それは妥当ではない。出雲守の家が元禄7年(1694)断絶すると、助宗作は出雲守の分家で、和州小泉の片桐家に伝わった。幕末の当主:主膳正貞芳は当時、鑑定家として有名だった。そこに天明2年(1782)霜月、江戸の研師:竹屋半四郎から、おそらく造りの短刀を送ってきた。見ると中心に金泥で、表に「此道具武田信玄公御所持、島田助宗写也」裏に「本阿弥光山」と誌されていた。それで片桐家伝来のものがその本科と判ったので、貞芳は新たに刀袋を作り、「武田信玄所持 おそらく 馬手差 源貞芳極之」と白く織り出させた。それ以来、助宗作のおそらく造りは、武田信玄所持と決まってしまった。 (日本刀百科事典:福永酔剣著より) |
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備考: 新々刀中上作
下げ緒が経年により傷みがあります。 |