商品詳細

短刀 七十八翁藤原直胤作

安政二年二月日 (新々刀最上作)

Tanto [Taikei Naotane]
保存刀剣
NBTHK Hozon Paper
No. A00545
白鞘 銀無垢一重鎺

刃長 : 19.4cm(6寸4分) 反り : なし 

元幅 : 1.9cm 元重 : 0.45cm

登録証:

佐賀県教育委員会
昭和26年4月4日
国: 武蔵国 (東京都・埼玉県・神奈川-東部)
時代: 江戸時代後期 安政2年 1855年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
保存刀剣鑑定書
令和2年2月19日
銘: 七十八翁藤原直胤作
安政二年二月日
形状 : 菖蒲造、庵棟、身幅細く、重ね尋常に、反りなし。
鍛 : 小板目細かによくつみ、地沸厚くつき、地景入る。
刃文 : 細直刃浅くのたれごころを帯び、小足少しく入り、匂深く、匂本位に小沸つき、ささやか砂流しかかり、匂口明るい。
帽子 : 直ぐに小丸に返り、先掃きかける。
彫物 : (なし)
茎 : 生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違に化粧つく、目釘孔一。

説明:

大慶直胤は、安永7年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、大慶と号した。文政4年頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年に上洛して美濃介に転じている。彼は若年の折に江戸に出て、水心子正秀の門に入り、後に師:正秀同様に秋元家に仕え、細川正義と共に水心子門下の双璧となった。水心子入門の時期については明らかではないが、彼が23歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘のあることから、これより2、3年前の寛政11、12年頃と推察され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政4年5月7日、79歳で歿している。

50年以上の長い作刀期間があり、技量的にも師:正秀を凌駕し、師:正秀が晩年に唱えた復古論を実践し、世に広めたのは実際には直胤であるといわれている。現に、新々刀期の刀工で重要美術品を輩出したのは僅かに四工であり、山浦清麿:4振、大慶直胤:3振、左行秀:2振り、水心子正秀:1振のみとなっており、その技量の高さを物語っている。持ち前の器用さと鋭敏な感覚、長期の作刀期間、生涯で二度におよぶ材料の鉄研究等の旅に意欲的に出ている探求心などの為、作風は広範囲にわたり五ケ伝の山城伝・大和伝・相州伝・備前伝・美濃伝の全てに通じるのは、直胤の他にはあまり思い浮かばない。なかでも、備前伝・相州伝を最も得意としている。彼の作品は造込み・茎仕立て・刃文・彫物・銘文なども当時から洗煉されており如何にも洒落ているものが多い。

この短刀は、形状は菖蒲造にて、地鉄は、小板目肌が細かによく錬れて約み、地沸が厚くつく、地景が入る。刃文は、細直刃が浅くのたれごころを帯び、小足少しく入り、匂深く、匂本位に小沸つき、ささやか砂流しかかり、匂口明るいといった作柄をみせている。

直胤は、安政4年5月7日に79歳で歿してるが、本作の銘文は実年齢は76歳ながら、「安政2年2月日 78翁」であり、他に「安政3年8月日 80翁」「安政4年春 80翁」「安政4年正月日 81翁」など、実年齢より年齢を繰り上げて切ったものがある。これは直胤の「喜老癖」によるものであり、晩年の作にまま見受けられる。また、「藤原」の「原」を省略して「藤」の一部に入れ「藤」と一字にしたものも同様である。

備考:

新々刀 最上作

 

登録証では「藤」一字

鑑定書では「藤原」として四角で括ります。

 

古研ぎのため、刀身の全体の刃先に薄錆がみられます。

切先がわずかに欠けています。

白鞘にヤケや染みがみられます。

詳細写真1
詳細写真2
詳細写真3
詳細写真4