商品詳細

脇指 大正四年八月吉日 近江介源胤明作

御大典奉祝紀念精鍛鎔綱造之

Wakizashi [Horii Taneaki]
保存刀剣
NBTHK Hozon Paper
No. A00526
白鞘 銀無垢太刀鎺

刃長 : 48.4cm(1尺5寸9分) 反り : 内反り 

元幅 : 1.75cm 元重 : 0.45cm

 

登録証:

大阪府教育委員会
昭和62年1月29日
国: 滋賀県
時代: 近代 大正4年 1899年

鑑定書:

(公)日本美術刀剣保存協会
保存刀剣鑑定書
昭和63年1月22日
銘: 大正四年八月吉日 近江介源胤明作
御大典奉祝紀念精鍛鎔綱造之
形状 : 鋒両刃造、庵棟、身幅細く、重ね尋常に、内反りとなり、先にいって切先両刃となる。
鍛 : 板目つみ、処々柾がかり、地沸つき、地景入る。
刃文 : 小のたれ調に小互の目を連れて焼き、処々尖りごころの刃、足入り、匂深く、小沸よくつき、金筋入り、砂流しかかる。
帽子 : 直ぐに焼詰め、棟方の焼刃に繋ぐぎ、先掃きかける。
彫物 : 表裏に腰樋に添え樋を丸留めする。
茎 : 生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔一。

説明:

堀井胤明は、嘉永4年6月23日、二代目久五郎の長男として生まれ、幼名は五朗3郎といい、初代:胤吉の甥あたる。

元治元年3月、13歳のときに、大坂住人月山貞吉門に入り刀剣鍛錬の修行に入る。明治3年5月、19歳のとき、胤吉と同様に近江国膳所藩のお抱えとなって、九等組米六俵下扶され、胤吉の向槌となる。しかし、胤吉と一緒に仕事をしたのは僅か7ヶ月の短期間であった。明治維新で帯刀も禁止となる情勢の為、同年12月、胤吉は帰農したので胤明も同じ立場となった。

明治9年、帯刀禁止令が発令されると作刀は一切出来なくなり、多くの刀鍛冶にとって苦しい時代を迎えるが、胤明にとっても同様で兵役や脱穀機の製作なども行っていたようである。明治18年、月山貞一とともに湊川神社五百五十年祭の神前鍛刀を行う。明治28年11月、胤吉が宮内省の御用刀工となると、胤明も翌29年7月、式部職より刀剣練習申付の辞令を受ける。明治32年、滋賀県粟田郡官幣大社建部神社勅祭の際に、古式鍛刀式により胤吉胤明父子は宮内省の許可を得て出張し謹作する。明治33年、胤明と改名する。明治36年4月29日、胤吉に師事すること7年、胤吉は83歳で亡くなる。明治36年、京都府下官幣大社伏見稲荷神社へ宝剣の太刀を謹作奉納する。大正元年、61才のとき、刀剣保存会より職号「近江介」を贈与される。大正7年、胤明は日本製鋼所室蘭工業所の招聘により入社、堀井家は北海道室蘭に移住しすることになった。7月28日、胤明68才、秀明き33才のとき、瑞泉鍛刀所も完成し火入れ式が行われている。大正12年8月24日、73才で逝去。

本作は銘文にある通りに大正天皇の御大典に際して製作されたもので、皇室ゆかりの人物が式典に参列するために製作を依頼したものであろう。刀身は、やや細身の鋒両刃造りの太刀で内反りとなっているところが面白い。胤明らの他には月山貞一・貞勝や柳川直弘ら当時の一流刀工が製作を行い、現在は附帯していないが、当時は最高技術を用いた華麗な装飾が施されれた衛府太刀拵があったものと推察される。

備考:

詳細写真1
詳細写真2
詳細写真3