商品詳細
刀 於東都八十三翁堀井胤吉造之 明治丗六癸卯年二月吉日 Katana [Horii Taneyoshi]
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保存刀剣 NBTHK Hozon Paper
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No. A00525
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白鞘 金着一重鎺 | |||||||||||||
刃長 : 66.8cm(2尺2寸) 反り : 1.0cm(3分) 元幅 : 3.7cm 先幅 : 1.8cm 元重 : 0.6cm 先重 : 0.4cm
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登録証: 岡山県教育委員会昭和52年6月15日 |
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鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会保存刀剣鑑定書 平成11年10月5日 |
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説明: 初代:堀井胤吉は、本名を堀井来助といい、刀銘を胤吉(吉文同人)、文政4年、近江国滋賀郡石山村大字鳥居に農鍛冶:堀井久五郎の四男として生まれた。天保8年、17歳で父に死別し、弘化元年、24歳のときに大坂に出て月山貞吉に入門し、師の一字「吉」を貰って「吉文」と号し、嘉永4年、31歳のときに月山貞吉の紹介で大慶直胤に57番目の弟子として入門、翌嘉永5年2月、門を辞して故郷に帰り、安政2年、秘伝書と師の一字「胤」を受けて「胤吉」と号した。文久2年、膳所藩本多家の家老:村松静寛の支援により同藩に仕え、その後、明治維新の廃刀令により苦難の道を歩むが、明治28年、75歳のとき、滋賀県社寺係笠井氏の紹介により、宮内省式部次官三宮義胤男爵に招聘されて同邸内の鍛刀所で作刀し、同28年11月に宮内省御用刀匠を拝命し、堀井家一門の基礎を築いた。 胤吉は生涯妻をめとらず、専心鍛刀に打ち込み精進を続けた。明治26年5月、胤吉が73歳の時、文豪:島崎藤村と滋賀県石山において出会ったこと、資料により判明しているが、その藤村が、胤吉のことを次の如く評している。「すぐれた刀工の技術者であるのみならず、詩歌や書もよくし輿地誌略(世界地理)に関心を持つなど清貧を楽しむ隠者的性格の人物であった」とあり、また「刀鍛冶堀井来助」「茶丈記」「何物をか吾物涯に与えし旅」「芸術の保護」「眼鏡」「力餅」等に来助の名人気質をたたえ、彼の精神の中に藤村の詩神、即ち芸術精神、の如実な体現を感じとっているのであった。これらの資料からも、如何に初代:胤吉が高潔にして清貧にあまんじ、黙々として我が道を行く人物であったといわれている。 胤吉は、明治3年、膳所藩を退いてから鍛刀一筋とはいいながら宮内省御用の拝命まで25年間の空白があり、ここに鍛刀作業を再開できたことは、胤吉にとって何にも変えがたい喜びであったことかは、三宮男爵のこの好情に対して以後専心精魂を鍛刀に傾注し、毎年春秋2振の作刀に神仏の加護をいただきながら精進したと伝えられる。 明治36年8月、病におかされるや、男爵をはじめ宮内省関係者の手厚い看護をうけながら、日赤病院で83歳をもって歿した。この年の元旦、胤吉は俳句を好み益水と称して多くの作品を遺した。 本作は、明治36年の紀年銘がきられており、胤吉83歳の最晩年作で、8月に没している。姿は、鎬造、庵棟、身幅やや細く、重ね尋常に、浅く反りつき、中鋒に結んだ軍刀のスタイルに、地鉄は、板目、杢交じり、処々柾がかり、肌立ちごころに、地沸つき、地景入る。刃文は、小互の目を連れて焼き、尖り刃・丁子風の刃など交じり、乱れ、総じて逆がかり、足入り、匂深く、匂主調にわずかに小沸つき、砂流しかかり、刃縁にわずかに飛焼風の湯走りを交えるといった出来口をみせ師の一人である大慶直胤が得意とした備前景光写しの備前伝を彷彿とさせる。堀井胤吉の優刀で、彼の作風と技量の高さをうかがい知ることができる。 |
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備考: |