商品詳細
大小 刀 泰龍斎宗寛造之 慶応三年六月日 (新々刀上作) 脇指 一 宗寛造之 慶応三年六月日 Daisho [Tairyusai Soukan]
|
|||||||||||||||||||||
特別保存刀剣 NBTHK Tokubetsu Hozon Paper
|
No. A00066
|
||||||||||||||||||||
白鞘 金着一重鎺 | 3,500,000 | ||||||||||||||||||||
刀 : 刃長 : 72.2cm (2尺3寸8分弱) 反り : 1.3cm (5分) 元幅 : 3.1cm 先幅 : 2.4cm 元重 : 0.8cm 先重 : 0.6cm 脇指 : 刃長 : 32.4cm (1尺7分) 反り : 0.2cm (わずか) 元幅 : 3.2cm 元重 : 0.6cm |
登録証: 群馬県教育委員会平成13年05月17日 |
||||||||||||||||||||
|
鑑定書: (公)日本美術刀剣保存協会特別保存刀剣鑑定書 平成16年02月09日 |
||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
説明: 泰龍斎宗寛は、文政初年に、大野平蔵の子として奥州白川城下に生まれた。鍛刀の師は固山宗次である。彼の作刀は、天保の末年頃から始まるが、その後の作品に、阿武隈川宗寛と銘するものがあって、生まれ故郷の阿武隈川を姓として用いている。彼が泰龍斎と称したのは安政元年頃からで、江戸での住まいは深川箱崎であり、嘉永初年頃から下総国古河藩の抱え工となったようである。彼は刀身彫も得意であり、師のよき協力者であったろう。銘は初め本刀のように楷書体できるが、安政三年の冬頃から四年にかけて隷書体に改めている。明治に入っても作刀しているが、廃刀令以後は見られない。明治十六年一月二十三日に歿している。 泰龍斎宗寛の典型作で、地刃共に完品であるばかりであるばかりでなく、大小なれど小が平造は珍しい。上研磨したばかりの状態良い一振である。 尚、本作は徳川家康の次男:松平秀康を家祖とする越前松平家の分家のひとつである前橋松平家に伝来した一口と伝え、現在は紛失しているが後藤一乗の高弟:船田一琴が製作した一作揃金具の大小拵が附帯していたという。奇しくも慶応三年は、松平直克をして新・前橋城が成り、前橋藩が再立藩している。想像を豊かにすれば、前橋藩からさほど遠くない古河藩:土井家から祝いの品として送られた品、或いは、何らかの関連するものであろうか。
<前橋松平家について> 初代の直基は当初父秀康から結城氏を継いだが、後に松平姓となった。この家系は最終的に前橋藩主として明治時代を迎えたが、江戸時代の間に姫路藩、山形藩、白河藩、川越藩など何度も転封を繰り返しており、2代目の松平直矩の様に一代で何度も転封させられた者もいる。なお、歴代の当主には大和守に任官された者が多い。 寛延2年(1749年)、国替えにより姫路より越前松平氏が15万石をもって入封。しかし元禄12年(1699年)の風水害に見舞われて以来、前橋城は利根川の浸食によって年々損害を受け、これが藩財政を圧迫した。宝永3年(1706年)には利根川氾濫により本丸の三層の櫓が倒壊、明和4年(1767年)までには本丸城地が完全に浸食されるに至った。積年の財政難で城の修築もままならないことから藩主・松平朝矩は前橋城の放棄を決定、武蔵川越藩に退避するかたちとなり、前橋藩は一時廃藩となる。城は全壊したあと長く廃城の状態が続き、川越藩の分領として前橋陣屋が置かれその支配をおよそ1世紀の間受けることになった。 幕末になって時の川越藩主・松平直克に念願の前橋帰城が許された。足掛け4年におよぶ大規模な築城を経て、慶応3年(1867年)新・前橋城が成り、川越藩の石高17万石をもって前橋藩が再立藩したが、間もなく大政奉還・王政復古の大号令となる。戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が謹慎すると、前橋藩はいち早く新政府へ恭順の意を示したが、飛び地領の上総富津では逆に富津陣屋が旧幕府軍に囲まれて家老が自刃した挙句、後になって新政府からは内通を疑われるという事件が起きている。 明治4年(1871年)廃藩置県により前橋県となり、その後、群馬県に編入された。 (参考 : Wikipedia) |
|||||||||||||||||||||
備考: 新々刀 上作 前橋松平家伝来 特別保存鑑定書は、「刀」「脇指」としてそれぞれに発行されています。 |